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開業から交通局誕生まで |
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1895年2月25日、運輸業として馬車鉄道の敷設が開始され、翌96年5月18日亀函馬車鉄道(株)を設立。
1897年4月1日に免許を受け、同年12月12日東川(後の東雲町)から弁天町間を、軌間1,372mm(東京馬車鉄道の技術指導により)で運行を開始。
1898年8月、社名を函館馬車鉄道(株)に変更し、12月12日には、湯の川温泉利用者の輸送目的で、東雲町から湯の川温泉間を開業しました。
1911年11月、電車運転を計画していた函館水電(函館市交通局の前身・現北海道電力(株))に買収され、電気運輸業の認可と動力変更、施設改良工事を実施して、1913年6月29日、東雲町から湯の川温泉間を電化。10月31日には東雲町から弁天町間も電化され全線で電車による運行が開始された。
1914年5月10日には、宝来町から谷地頭間を開業。その後も大森線の開業によって、現在の運行路線の基礎が確立されます。
1926年と1934年の二度に渡り、火災で車庫棟や車両を焼失し、その都度、東京市電気局(現・東京都交通局)より車両の補充を受けながら復旧に努めましたが、1934年7月に函館水電は帝国電力(株)と社名を変更、1940年7月には大日本電力(株)と合併。
太平洋戦争中の電気統制令により、1942年10月1日付で子会社の道南電気(株)に軌道事業が委譲され、同年11月に道南電気軌道(株)と社名変更します。
函館市は監督庁に「電気事業と軌道事業の除外」を特別陳情し、1943年3月、函館市と道南電気軌道(株)は譲渡契約を締結、同年11月1日を以って函館市に譲渡され、「函館市役所交通局」として発足します。
「函館市交通局」と改称されたのは、1952年10月1日です。 |
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路線の延伸と廃止 |
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1950年9月「ガス会社前から宮前町」、1951年7月「宮前町から五稜郭公園前」、1954年11月「ガス会社前から鉄道工場前」、1955年11月「鉄道工場前から五稜郭駅前」、1959年9月「湯の川温泉から湯の川」と延伸・開業し、1959年に1日約135,000人の人員を輸送し全盛期を迎えますが、その後は車社会の普及によって輸送人員を落としていきます。
1959年の全盛期では、500形・600形を主流に、3人乗務体制(運転士1名・車掌2名)が組まれ、輸送にあたっていましたが、1960年頃には3人乗務から2人乗務に変更され、1968年から車体のワンマン改造が開始されます。(1970年11月には全系統ワンマン化完了)
1973年10月1日、営業時間短縮に伴い、車庫の閉鎖(柏木車庫・梁川車庫)と減車を実施、1974年には交通事業財政再建団体の指定を受けることにより、1978年10月31日限りで「ガス会社前から五稜郭駅前」間(1,679m)を廃止します。
財政再建終了の1988年以降、函館市長は函館市交通事業経営審議会に「交通事業のあり方」を諮問し、答申を基に「函館市交通事業健全化対策調査特別委員会」、「函館市の交通事業を考える市民懇談会」が設置され、検討の結果、1991年11月「函館市交通事業健全化計画」が策定されます。(公営で維持・存続し健全化を勧め、2001年までに自立経営を目的とする計画)
「健全化計画」により、1992年3月31日限りで「宝来町から松風町(東雲線)」(1,632m)、翌年1993年3月31日限りで「函館駅前からガス会社前経由五稜郭公園前」(3,633m)が廃止されました。
その間の1992年10月1日から「対キロ区間制」(イカすカードの導入)運賃方式に変更されています。 |

1992年頃/栄町付近・宝来町方向 |

1992年頃/栄町電停・松風町方向 |

1993年頃/宮前町電停付近・ガス会社方向 |

1993年頃/新世橋電停付近・五稜郭方向 |

1993年頃/ガス会社付近から・函館駅方向 |
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路線の縮小後 |
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公営で維持・存続を基本として(市民生活に必要な施設)、公営の路面電車としては、最長の営業距離(17.8km)を誇っていた時期もありますが、路線廃止によって、現在では10.9kmに縮小されました。
路線の廃止は、経営難を理由にしたものではなく、函館市の「交通事業健全化計画」に沿ったもので、「市内の幹線を路面電車で」、「郊外との連絡をバスで」、という位置付けから実施されました。
1992年3月31日「東雲線」、翌1993年3月31日「ガス会社回り線」と廃止が続きましたが、反面、明るい話題としては、27年ぶりの新型車両(2000形・3000形)の導入と、市制70周年記念事業として、チンチン電車(箱館ハイカラ號)が復元されています。 |

1995年3月/2002号車の搬入 |

1995年3月/3002号車の搬入 |

1994年5月/納車直後の39号車 |
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車庫 |
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| ●梁川車庫(函館市交通局梁川出帳所) |
全盛期に設置され、当初は1系統と4系統の乗務員休憩所と、ササラ電車や営業線用予備車両の待機施設がありました。
その後、営業車両の増加に伴い、ピットを備えた車庫棟(棟内3線と外1線)が建設され、以前からある留置線との連絡用線が設置されています。
この連絡用線は、その後、教習線として活用されました。
昭和48年10月に梁川車庫廃止後、「ウロコボウル(ボウリング場)」、「函館西武デパート」、「複合娯楽施設・パボッツ函館」として生まれ変わっています。 |
| ●柏木車庫(旧函館市交通局庁舎) |
柏木車庫は、1系統・4系統を除く、全系統の拠点基地として車庫棟(ピット・外1線・棟内線)と庁舎を備えて建設されました。
庁舎には、営業線への出庫指令所(配車室)の他、乗車券販売・乗務員休憩室・福利厚生施設などがありました。
昭和48年10月に柏木車庫廃止後、現在、「ホテル・ロイヤル柏木」として生まれ変わっています。 |

1964年頃/柏木車庫 |

1964年頃/柏木車庫 |

1964年頃/柏木車庫 |
| ●駒場車庫(現函館市交通局庁舎) |
函館大火などによる、二度の火災で車両も含めて焼失したことから、昭和9年に建設されました。
建設当初は、交通局の前身である函館水電の車両基地として活用されていましたが、沿線に車庫が建設された以降、車両工場として運用されました。
健全化計画によって、梁川・柏木両車庫が廃止され、駒場車庫に統合されたため、車庫内に留置線(外1・3・4線)と出入庫線が増設されました。
末広町・交通局分庁舎として使用されていた「旧丸井デパート」が老朽化により倒壊の危険性も出てきたことから、あらたに、駒場車庫内に庁舎が建設されたことで、現在の駒場車庫の形態になっています。
※函館市電全盛期には、終車後、梁川・柏木両車庫に入りきれずに、一部は駒場車庫で留置された時期もあります。
(始発前に柏木車庫に移動し、出庫という時代もありました。) |
 1964年頃/駒場車庫 |
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チンチン電車と呼ばれた由来 |
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開業当時の路面電車では、ブレーキ方式が手動であったことから、現在のようなエアーホィッスルではなく、運転台床下に鐘が取付けられ、電車前方の障害物に接近を知らせるために、足元のペダルを強く踏む動作が必要でありました。
ペダルを踏むことにより、鐘が「チンチン」と鳴ることに由来していると言われています。(車内連絡用信鈴の音が由来とも、言われています)
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| 乗務員連絡用信鈴 |
| 打数 |
内容 |
| 1打 |
運転士から車掌、運転台まで来て。 |
| 2打 |
車掌から運転士、発車よし。 |
| 3打 |
車掌から運転士、至急停車。 |
| 乱打 |
車掌から運転士、緊急停車。 |
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信鈴 |
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